混ぜるな危険。

『聖なる教は一つの学である』

―「神学大全」より。

 

 

1200年代中盤に活動していたトマス・アクィナスさんはスコラ哲学の分野で信仰の論証をしようとしました。

スコラ哲学といえば、「哲学は神学のはしため」という言葉にもあるとおり、哲学が神学を志すにあたって価値のあるものだという考え方を基軸にしています。

 

で、冒頭の一文。

と、いきたいところですが、前回私が哲学の話を放棄しただけでなく、今回アリストテレスの話をぶっ飛ばして1000年以上時を進めてしまったことについて、文句のあるハードコアな読者の方がいましたら、是非とも声をあげていただきたいものです。

 

 

さて、とにかくアクィナスさんはキリスト教を定着させたいがために、信仰をとおして、哲学のなんたるかを教えて回っていたわけです。

そんなアクィナスさんはキリスト教の大前提として「神様はいますよ」ということを様々な著書で一生懸命示しています。いわゆる、神の存在証明です。

この証明にあたって、アクィナスさんはアリストテレスさんの「不動の動者」という考え方を採用しています。

(アリストテレスきたー!)

不動の動者とは、すべての物事にはかならずその原因があって、原因をずっとたどっていったら神様にたどり着くじゃん?

というなかなか無理筋のぶっ飛んだ理論です。

(アリストテレスさんの話難しすぎ)

 

とはいえ、アクィナスさんはこうして、哲学を用いて宗教の教義を統一し、人々に定着させようと尽力しました。

 

大事なことは、これまで紹介した古代ギリシアのよく生きる哲学が、時を経て中世の時代には神学、というか宗教の概念のなかに飲み込まれてしまった、ということです。こうして、哲学がどんどん一般人からかけ離れていくわけですよ。あまり宗教に傾くと私も取り扱いづらいです。

 

 

中世の哲学は次第に「王権神授説」とかいう読んだだけでぶっ飛んでることがわかる方向に進み、そこから学生時代にも確かに学んだ「社会契約説」へと発展していきます。

 

 

ではまた。

【参考:読まずに死ねない哲学名著50】